
「退屈だなぁ」なんて、頭の後ろで手を組んでぼーっとする時間、最近ありますか?
個人のブランディングが大切だといわれライフスタイルにまで社会的価値がつけられる、ちょいだるい世の中。

社会的価値のあるライフスタイルが心地よく、自分に合っているのであればいいのですが、その人たちに憧れて「自分もこうなりたい」という沼にハマり込むと、どんどん自分のライフスタイルがつらいものになってきてしまう可能性があります。
個の時代になり自由度は増した。
それなのに、なぜだかつらい。
ぼくらはなにか、得体の知れないものにプレッシャーをかけ続けられているのかもしれません。
いったい、何にプレッシャーをかけられているのでしょうか?
その正体のヒントを教えてくれる1冊をご紹介します。
- 退屈とはどういうことか
- 他者への依存と遊びの関係
- ケアとセラピーの違い
- 精神科デイケアの日常例


この記事では本書をヒントに、なににプレッシャーを感じているのか、なぜぼーっとできなくなってしまうのか考えてみたいと思います。
東畑開人
沖縄の精神科クリニックでの勤務を経て、2014年より十文字学園女子大学。准教授。2017年に白金高輪カウンセリングルームを開業。臨床心理学が専門で、関心は精神分析・医療人類学。
目次
2つの時間
意識したことがなかったのですが、どうやらぼくらが生きている時間には2つの時間があるようです。
この2つの時間がぼーっとできない理由を考える上でキーワードになるので、ちょっとだけ用語解説。
●線的時間
入学や就職、結婚など生きているとさまざまなイベントが訪れます。
そのような日常とはちょっと離れた、人生に物語の1ページを加えるような時間を線的時間といいます。
●円環的時間
普通はイベントなんて毎日起こりませんよね。
寝る、起きる、歯を磨く、会社に行って仕事をする、帰る、寝る。
こんな感じで、基本的には同じような毎日を繰り返します。
日常ってやつですね。
この日常の時間を円環的時間といいます。


円環的時間にある退屈
ぐるぐるぐるぐる、退屈だなあ。
円環的時間の中には退屈がひょっこり隠れています。
ぼーっと生きていたらチコちゃんに叱られてしまうし、そんな退屈な時間が長く続くと普通はだんだんと「なにかしなきゃ」と退屈から逃れようとします。
●退屈とは空虚に放置されること
仕事などのやることが提供されない、なにもすることがない。
このような退屈な時間を本書では「空虚のなかに放置される」と表現しています。

ほったらかされてなにもすることがないと、無駄になにかすることを探して退屈という空虚から脱出しようとします。

でも、もしもなにかのきっかけで円環的時間が狂ってしまうと退屈することが難しくなってきてしまいます。
空虚になにかが入ってきちゃう
円環的時間が狂い、ぽっかりと穴があいてしまうと退屈という空虚になにかが入ってきてしまいます。
僕たちだって会社を休んでしまった次の日は、みんなの視線が痛い。本当はそこには何もないのに、充満する「何か」を感じてしまうということがある。
なかなかヘビーに落ち込んでいるときも、本来なら退屈に感じるはずのなにもしていない時間にあれやこれや考えてしまいますよね。
円環的時間を狂わせる線的時間の物語があると、日常において退屈を感じることができなくなってしまいます。
●空虚のなかに入り込む声
空虚に入ってくるもののなかには、さまざまな声があります。
統合失調症の場合ならそれが幻聴だったり被害妄想だったり。
しかし、統合失調症でなくともぼくらは常にある声にさらされています。
それが社会的価値の声です。

●社会的価値の声
社会的価値とは、社会に必要とされる存在であること。
仕事をする上で常につきまとう言葉。
もちろん、この言葉自体が悪いわけではないし、仕事をする上では必要なものです。
しかし個が重要視される今の世の中、やれブランディングだマネタイズだとぼくらの日常にまで社会的価値の声が押し寄せてきています。
この声がたまにうるさいと感じるほどに、なにかと頭の中でささやいてくる。
黙れ黙れ。
ちゃんと退屈できていますか?
社会的価値の声にさらされ、空虚のなかにその声が充満してしまうと日常の何気ない行動にまで意味を持たせたくなってきてしまいます。
そうなると円環的時間が狂い、日常を送るなかでだんだんと支障が出てくる可能性があります。
寝れないだとか、疲れが取れないだとか、体と心に影響が出てきてしまうアレです。
実は「うーん、暇だなあ」なんて退屈できるって、穴がぽっかり開いてなにかが充満しているときにはできないものだったんですね。
退屈とは身を守る円が閉じたことを示す偉大な達成だ。空虚とは円が閉じた証なのだ。
どうでしょう、ちゃんと退屈できていますか?
『居るのはつらいよ』を読んでみて
ここまで書いてきた内容は、本書を読んでいて「これって最近の世の中でも当てはまるよなあ」なんて感じた内容を一部切り取って考えてみたものです。
ということで、本書の内容とはちょっとズレた記事になってしまいました。

『居るのはつらいよ』は精神科デイケアの円環的時間を通して、ケアとセラピーについて書かれた本です。
ケアとセラピーとは、ということだけなら、その違いを羅列して紹介すればOKなんでしょう。
しかし、それを日常の描写の中で説明しているとなると、これはもう読んで味わってもらうしかありません。
1つ、ぼくが「うわー、いいなあ」と思ったところをご紹介します。
統合失調症と診断され精神科デイケアに通い社会復帰を目指す、ジュンコさんという人のお話。
早く社会復帰を目指すジュンコさんでしたが、デイケアに通うなかで自分がヒートアップしすぎてしまうことに気づき、つらくなるとデイケアから出てクールダウンをするようになります。
そんなクールダウンをしているジュンコさんを、主人公の臨床心理士である「僕」が探すシーン。
草が腰くらいまで伸びているその公園のいちばん奥で彼女を見つけた。公衆便所の裏でジュンコさんはタバコを吸っていた。「探しましたよ」僕は言う。「ごめんね、ちょっとワサワサしちゃってさ」ジュンコさんは答える。「そうなんですね。戻れますか?」「もうちょっと、ここにいたい感じかも」
そうかもしれないと思って、僕もタバコに火をつける。そして、シーソーに座る。すると、ジュンコさんはブランコに座る。何か話をするのが必要なのではない。脅かされずに一緒にいることが大切だ、と思う。
だから、僕はゆっくりとタバコを吸う。ジュンコさんもタバコを吸う。

この1シーンにケアとセラピーがなんたるかを感じました。
おわりに
1シーンを引用するとなかなか長くなってしまいますね。
ただこのシーンは個人的にどうしても紹介したかったので、引用させていただきました。
ぼく自身、うつと診断されている方を施術することがあります。
そのとき思うのが、「あんまり言葉っていらないなあ」ということ。
病気があるないに関わらず、ただ一緒にいることって生きる上でめちゃくちゃ重要だったんですね。
ふー、ここまで書いたら、なんだかお腹が空いてきました。
なんか食べて、ぼーっとしようと思います。
- コミュニティに属している全ての人
- 要するに、みんな
※雑で申し訳ない。